現代語訳

御座村不動堂宇改築についての奉加趣意書
(明治35年起草)
 

  

不動尊の縁起

そもそもわが御座村に安置されている不動尊は、今を去ること千百余年前 すなわち、わが国の延暦年間(782-806)に空海上人が当地へ巡錫され、今の地を撰澤されて、地中より屹立している自然石に手づから不動の尊像を爪刻されたとして、里俗では爪切不動と云っている。

その霊現

 一斑を挙げれば、空海は呪法を修めていて、不動附近一帯の地にはヲゴロ虫(モグラのこと)の発生を封禁したとされており、今もって、その虫が発生していないのも奇中の奇である。
 この如くだけでなく、尾州知多郡野間村の森田伊助所有の船幸福丸が 今を去る60余年前の天保年間(1830-1843)のこの時、紀州灘より伊勢湾に向って航海中に、和具村領字の四畳というところにおいて、船が暗礁に触れて、潮水が侵入し、まさに沈没しようとする時、船長は日頃信ずる不動尊を一心不乱に遙拝して、その急難から免れようと祈願した。暫時して浸水頓かに止み、船は無難に濱島港に達することができた。
 船人は直ちに船底を調査すると、不思議なことに数個の石決明(アワビ)が巨穴に固着して、浸水を防過していることを看る。船長や水夫は大いに驚ろき、これは全く不動尊の御利益により、焦眉の急難を救われたることと覚知し、信心すること肝に銘じて、後年、花崗岩を寄進して階段を作り、永く森田家の記念とした。
 これらは事実の著名な霊現であり、衆人の認識するところである。その他、切現の著しきものを枚挙するにいとまがない。

 堂宇建立の由来

 さて、今の堂宇は美濃の名僧霊源禅師が 今を去る百余年前の寛政年間(1789-1801)の頃、各地を巡鉢し、廣く信徒の喜捨浄財を募って、建立されたものである。それ以後、一層不動尊の威霊が発揚した。いわゆる不動中興の祖師と俚人が尊敬するのも、決して虚飾の業ではない。
 しかしながら、星移り、物換った明治時代の今日に至り、不動尊の威霊は日に日に顕著になり、信徒の数は月毎に増加して、日清戦後に分捕った珍品を下附される等、実に志摩郡内唯一の霊場と稱せられた。
 縁日は毎月十六日であるが、参拝者はあたかも蟻が集まっているかのようである。
 ここにおいて、堂宇の狭隘さを告げるとともに、改築の必要がますます急を告げるようになり、ここに起工の運びに至ったのである。そうしてこれに要する工費はあまねく信徒の浄財を以てして、工事の敏速を謀るとともに、信徒諸氏の便利に供せんことを期す(次第である)。 請い願わくば、四方の信徒は應分の浄財を喜捨あらんことを。 −()内は訳者補注−

            明治三十五年拾月  志摩郡御座村不動堂主 敬白

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